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Malicosmos ―高橋真理子の小宇宙

malicosmos.exblog.jp

「つなぐ」「つくる」「つたえる」「とどける」 これが自分の仕事のキーワード

記憶をつなげば市民がうまれる?

という副題がついたセミナーに参加した。 メインタイトルは、歴史展示との対話、である。
人々の記憶というものが、博物館の展示や資料にどう反映できるのか、残すに値する記憶とは何か・・というのが趣旨だった。 イギリスのレスター大学にいるヴィヴ・ゴールディング氏(専門は、博物館学・フェミニズム解釈学) による「メモリー・ワークショップ」、彼女の講演と、「記憶と博物館」に関連して3つの報告とその後のディスカッションタイム。 無理して参加したかったのは、「メモリー・ワークショップ」なるものが何であるかを知りたかったこと(五感を通して、人々の記憶にどうやってせまっていくか)、報告の中に、東京空襲体験者への聞き取りをやり続けてそれをもとに展示を制作している学芸員のお話があったこと、の2つ。
いくつか印象的だったこと。

戦争や被災の記憶、それらの継承は必要なことであるけれども、どう残すのか、非体験者が「継承」することはほんとに可能なのか、という課題を持ちながら、東京のすみだにて、100人以上の空襲体験者の聞き取りをしながら、戦争展示をつくっていらした学芸員の田中さんのお話。 当時の家や店の地図を書き起こしていく、という作業を体験者と共にやっていくなかで、ずっと心の奥底にしまってあったトラウマから抜け出し、その人自身がいやされていく、また、忘れ去れてしまった犠牲者たちが浮かびあがってきて喜んでおり、残されたものがまた生きる力を得る、というプロセスを見た、と。しかし、同時に、体験者と非体験者の間にある大きな壁は越えがたいものがあって、それは非常に大きな断層。 その断層をいかに埋められるか・・・これは、非体験者が、いかにこれについて想起できるのか、その契機を与えられるか・・・というところにいきつくのであろう、と。 また、彼のお話の中にあった、個々の記憶を集団的記憶(事実としてこうであった、という)に、収束させることはできないし、また収束しようとするのは危険なことでもある、というのも、とても大事にしたい意見だと思う。

また、「人々の記憶をつないで博物館の展示や資料に・・」という視点ではなく、人々の記憶の中にどう博物館体験が位置づけられているのか、という報告も面白く聞いた。 子どものころ利用した博物館をその、5年後、10年後に振り返って語るとき、人々は何を思い出すのだろう。 そこで語られるのは、ほとんどが、「何を学んだか」ではなく、「何をしたか」「誰と・・・したか」「そのときの雰囲気や環境」といったことのようだ。 これは、「記憶の中の科学館」について研究されている湯浅さんという方の研究でも似たようなことが明らかになっている。 また、今回の報告の中で、興味深かったのは、「昔の博物館体験」をインタビューすることによって、その人の記憶が「塗り替えられ」また、新たなものとして自身にインプットしなおす、それによって、(今回の場合だと)そこにまたいってみよう、とか、次のアクションがでてくる、というのである。 人々の記憶にとって、「語り直す」という行為は決定的に影響をあたえるものだろう。 人の記憶は、何かに「表象」してはじめて他者に伝わる。 その表象は他者への伝達だけでなく、その人自身にとって、そのものごとや自身をアイデンティファイしていく作業なのだろうとも思う。 

科学館体験を例にとれば、個々への「聞き取り」などを通して、「語り直し」をし、それによって、例えば、「人々にとっての科学館やプラネタリウムってどうあればよいのか」というのが見えてくる結果にもなろうし、また語り直した個人は、館に対するまなざしをまた新たにすることだろう。私が関わる、星の語り部活動も、番組制作の方法も、子どもや人々の天体に関する認識調査も、来館者調査や、高齢者と子ども達をつないで表現活動につなげるプロジェクトも、学芸員実習のワークショップも・・・すべて発散的には見えるが、どこかで、この「聞き取り」「語り直し」に通じてくるものばかりであることにも気づく。  そして、その気づきもまた私自身の語り直しによって得られているのであった。
by malicosmos_meme | 2005-10-18 04:08

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